県スポーツ協会副会長 片平 俊夫(78) 3
若い選手に未来を託す
福島陸協の強化部長に就任してから5年目の1985(昭和60)年。奈良県で「わかくさ国体」が開催され、陸上の県勢は3人の優勝を含む10人11種目で入賞を果たした。
それでも陸上の総合順位は天皇杯の得点が加算される8位以内に届かず、9位に終わった。大会前半は高校生の種目が多く、最終日を残して4位だった。しかし、最終日は一般の選手が出場し、実業団チームが集中する関東、関西地区などの都府県に一気に逆転された。
純粋に地元選手だけで見れば、本県は強くなっていた。県外の実業団チームの中にも本県出身者はいたが、今のような「ふるさと選手制度」はない。本当に悔しい思いをし、自分がもがいている夢を見たこともあった。
この頃、全国都道府県対抗女子駅伝競走大会がスタートした。本県は83年の第1回大会で11位だったが、20位台、30位台と徐々に落ちていって第8回大会で40位に沈む。実業団チームがある県との差が広がっていた。
私は県内企業を何社も巡って陸上部創設を懇願したが、全て断られた。景気が良さそうな会社も全部駄目。首都圏の企業の子会社が多く「本社に相談してほしい」という返事もあった。老獪ならさまざまなルートに手を回して交渉できたと思うが、当時の私はまだ若くて直球勝負。ある企業では担当部長が出て来ると「当社はお客様から1円、2円の利益を頂いている会社。そのような大きな事業はできない」と、ほぼ門前払いだった。若造が「何とかお願いします」と単刀直入に掛け合ったところで受け入れられなかったが、この経験はその後の人生で役立つことになる。
一方、わかくさ国体の県勢は後に田村高などで指揮を執る下重庄三や畑中良介、現在は福島陸協理事長の三浦武彦、本県女子駅伝監督の阿部緑の各選手ら精鋭ぞろい。高校生や20代の成長に手応えを感じ、活路を見いだした。それは大学や実業団で強くなった選手に指導者として県内に戻って来てもらうというサイクルだった。
(聞き手 鈴木健人)
奈良県で1985年に開催された「わかくさ国体」の成績。陸上の本県選手団は精鋭がそろっていた。
かたひら・としお
伊達郡保原町出身。保原高、順天堂大学体育学部卒。1967(昭和42)年教員採用。長年にわたり陸上界の発展に尽力。95年の「ふくしま国体」では本県の天皇杯獲得(男女総合優勝)に裏方として貢献した。2015年みんゆう県民大賞受賞。
(福島民友2022年8月17日付)