県スポーツ協会副会長 片平 俊夫(78) 9
選手受け皿確保へ陳情
「天皇杯は本当に取れるのか?」
「開会式や運営はしっかりできるのか?」
ふくしま国体には大切な県費が使われており、県議会の常任委員会などで矢継ぎ早に質問を受け、競技力向上対策本部は防戦一方の体だった。「『何とかなる』ではすまされないぞ」とげきが飛ぶこともあった。
各競技団体が求める補強選手の受け皿確保にも苦しみ、競技力向上対策室長の結城勝夫先生らと陳情に向かった先は、本県関係国会議員だ。中でも通商産業相(現経済産業相)などを歴任し「平成の黄門様」の異名を取った衆議院議員の渡部恒三先生のご協力に感動した。
「いづがらが、国体は開催県が優勝するというあしき習慣があるようだが、おらが国で開催されるとならば話は別だ! あんだのとごろで何とか人を雇ってくれ!」
おなじみの会津弁で本県に事務所がある大企業の社長に掛け合ってくれた。社長が「うちは東大卒や一橋大卒ばかりで、、、。一人なら考えてもいいですが、多人数を採用するには検討する時間が必要です」などと渋っていると、「俺は早稲田(大卒)だ。検討して駄目なら検討とは言わないぞ!」と鋭い口調でくぎを刺した。恒三先生には「本県が国体で勝って県民に元気になってもらいたい」という地元への熱い思いがあったのだと思う。
天皇杯獲得(男女総合優勝)の目安は3千点だった。ある程度のめどは付いていたが、勝負には絶対はなく、強化対策班が血まなこになって駆けずり回っていた時期だった。
恒三先生のおかげで補強選手の受け皿となる企業の開拓は一気に進み、国体で戦う陣容が固まっていった。入念に進めてきた対策がようやく仕上がり、競技団体は見違えるほどの戦力になってふくしま国体に突入する。
1995(平成7)年10月14日、福島市のあづま総合運動公園陸上競技場で行われた開会式。「友よ ほんとうの空に とべ!」。あいさつに立った吉田修一市長が叫んだスローガンが秋空に響き渡った。
(聞き手 鈴木健人)

かたひら・としお
伊達郡保原町出身。保原高、順天堂大学体育学部卒。1967(昭和42)年教員採用。長年にわたり陸上界の発展に尽力。95年の「ふくしま国体」では本県の天皇杯獲得(男女総合優勝)に裏方として貢献した。2015年みんゆう県民大賞受賞。
(福島民友2022年8月24日付)