県スポーツ協会副会長 片平 俊夫(78) 12
選んだ道に後悔はない
3人の恩師に出会わなければ、陸上に携わる人生にはならなかったかもしれない。
幼少期から体を動かすのが大好きだった。小学校に入ると白ズボン姿が格好良かった担任の菅野先生に「何か運動をやった方がいいぞ」と勧められた。当時、男の子の遊びは決まってソフトボール。夢中でボールを追いかけ、スポーツの楽しさを感じるようになった。
中学校では陸上の手ほどきをしてくれた体育の吉田孝男先生がいた。跳躍の先生から「バネがある」と素質を見込まれ、3年生の時に特設陸上部で三段跳びに挑戦することになった。
まだスパイクが普及していない時代。県北地区大会は、はだしで11㍍50を跳んで優勝した。県大会に出場すると、友人のスパイクを貸してもらい、12㍍24の記録でまたもや優勝。みんなに驚かれたが、この時は陸上をやる気はなかった。野球にのめり込んでいたからだ。主に3番や4番を任され、強肩強打の三塁手として自負があった。
進学先の保原高校は甲子園出場を狙えるほど強く、入学直後に野球部の監督から声をかけられていた。ただ、それ以上に熱心に勧誘してくれたのが陸上部顧問の吉田清計先生だった。私の自宅まで訪ねてきて「息子さんには何とか陸上をさせてください」と父を説得した。私は大好きな野球をしたくてグラブを野球部の部室に置いたが、「たまには気晴らしに軟式野球をやらせるから」と丸め込まれた。
一方、野球部は私が3年生だった1962年(昭和37年)年夏、福島市の信夫ケ丘球場で開かれた本県と宮城県の代表4チームによる東北大会に進み、初戦で強豪の東北高に快勝した。決勝は0-1で気仙沼高に惜敗し、甲子園出場にあと一歩届かなかった。大会後、吉田清計先生から「監督が片平の『肩』と『足』が欲しかったといっていたぞ」と聞かされてうれしかった。でも、陸上の道を選んだ事を後悔していない。
(聞き手 鈴木健人)

かたひら・としお
伊達郡保原町出身。保原高、順天堂大学体育学部卒。1967(昭和42)年教員採用。長年にわたり陸上界の発展に尽力。95年の「ふくしま国体」では本県の天皇杯獲得(男女総合優勝)に裏方として貢献した。2015年みんゆう県民大賞受賞。
(福島民友2022年8月27日付)