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安達高校100年の歩み

安達の歴史は大正12年(1923年)4月16日からはじまった

写真は、一部の画像を除いて当時から残されていた画像を使用しています。

手記は、それぞれの先輩が記念誌に当時を思い返し綴ったものを原文に 近い状態で載せています。もしかすると、若干の勘違いや記憶違いがあるかもしれませんが、筆者の当時の感性を尊重いたしました。 その点はご理解頂きますようお願い申し上げます。

1901年、明治34年頃から地域の市町村を中心に、安達中学の設立を要望しはじめます。
1919年、大正8年、県議会での決議を契機に学校設立に向けて具体的な方策が進められます。
ようやく、安達管内の多くの人々の苦労が報いられ、1923年、大正12年4月16日、第1回入学式が晴れて挙行されます。
当初は、13歳になる年齢で入学し17歳で卒業する5年制がスタートしました。

最初に入学した先輩(上記 左 第1回入学者・右 開校式)は、当時をこのように振り返ります。
「この時期の入学試験は、米一升30銭の時代、入学受験料は、1円50銭。試験科目は、国語・算術・作文で、 現在からみれば、大変やさしいものであった。合格発表は、成績順できわめて厳正であった。霜降小倉の制服は、授業料と同じ4円50銭。 当初、安達中学はイギリス・イートンハイスクールの学風を規範とした。」

また別の先輩は
「関東大震災の年の4月16日に入学した。 服装は和服に袴。教室は校舎の端の1つで、隣が職員室と使用できる部屋は2つだった。 先生も3~4名で専門以外の科目も教えるという、急場しのぎのスタートだった。

5月に全国でも数校しか採用されていない、白いゲートルを巻くイギリス海兵隊スタイルを摸した制服制帽が出来た。
校庭は、猫のひたい程で、周りには木材が積んであり、資材運搬用のトロッコも敷設され、雑然たる学校の姿であった。 この校庭の整備は、毎日1時間、作業の授業があり、迷惑千万なれどもそれに耐え、校庭の整備に力を注いだのである。」 と手記を残しています。

こうした創立直後の苦労を多くの先輩が書き残しました。
「休憩の鐘が鳴るや、一目散にトロッコに乗り、疾走させる。まさに爽快なり。 しかし、この遊びが見つかり、蜘蛛の子を散らすように逃げ帰ったが、一瞬逃げ遅れて、先生につかまり、大目玉を頂戴した者もいた。」

そして、ある先輩はこう結んでいます。
「この作業を通して知識として、頭に入れただけでは、何の役にも立たない。行いも、ともどもにせねば、真の学問知識と言われないとの 『知行合一の精神』をそれとなく我々に吹き込んでくれた。」


黎明期の安達と廃校の危機


この時期の授業風景の手記も多く残されています。(下記左 当時の職員室・下記右 農業実習)

「当時農業実習の時間があって、切通し近くの学校の畑でクワの使い方やイモの植え方などを習ったものである。」

「あるとき英語の先生から、試験の成績が悪いので、再試験をやると申し渡されました。これは大変だということで、誰からともなく、 試験があっても、白紙で出そうということになりました。当日はよくもまとまって白紙を出したものです。試験の後、夜遅くまで、 ローソクの明かりで、夕食のパンをもらいながら、首謀者はだれかを調べられた覚えがよみがえります。 でも、いくら調べられても、誰が最初に言い出したのかわからないのだから、わかるわけがない。 やんちゃなことをやったものだと考えています。」と安達らしい思い出が残されています。


創立当初から学校に通えない生徒向けに寄宿舎も併設されました。(下記写真 寄宿舎の生活)

寄宿生活を送った先輩は、

「寄宿舎では、毎日、日課が決められており、自治的にさせるため清掃はもちろん、食事の献立も週番に当たった部屋の者が担当した。 献立は1週間分立てて舎監の先生の許可を得て、賄(まかない)のおじさんに渡し、それによって食生活をしていた。
当時の寄宿舎の費用は、1ヵ月12円のため(当時、米10㎏ 2円60銭程度・教員の初任給が45円という時代)、ぜいたくな献立は やかましい舎監の先生が許可してくれなかったため、なるべく許してくれる舎監の先生に献立を提出した。
夜は自習時間が終わると空腹を感じて賄部屋に行き、残飯の戸棚をガラリ、ガラリと開けるものだから、遂には残飯を出しておいてくれるようになり、 大変都合がよくなった。」と食べ盛りの思い出を語っています。

「創立1年目、今で言う『三顧りの松』は、大平の旧家から大八車で14・15歳の生徒の手で運搬されたものであり、 校舎周囲の桜、松などもみんな生徒各自の植樹によるもので、それが今に至るまで連綿として生き続けている。植樹した諸君は、 それぞれ感無量な思い出の種であろう。」と50周年記念誌で語られています。

「卒業した昭和2年の春、卒業記念として100本近くの苗木を植樹した。60年たった今、すっかり老木となって、 校庭に7本、校外の道路側に1本残っているだけとなった。だが、春ともなれば、見事な花を咲かせ、新入生を迎えてくれる。」 と60周年記念誌に手記が残されています。


創立間もない昭和5年(1930年)、安達は廃校の危機を迎えます。当時の教員の手記です。

「まだ10年ひと昔という声も聞かれぬこの学校が、廃校という危機に直面したのである。いわゆる昭和恐慌で、国は疲弊の極にあった。 浜口首相が財政再建策を次々と打ったが、それが県政でも具現したのである。教員の削減も容赦なく実施され、昨日まで隣に座っていた ベテランの先生が姿を消し、月給100円以上の教員は1割減という減俸措置も取られた。 安達中学を存続させるために、生徒を確保すべく二本松町をはじめ近隣町村も一致協力して、この危機に当たることになった。 教員は地区を分担して担当した。退職した先生も馳せ参じ、寒い冬の雪解け道をドロドロになりながら、1軒の家にたどり着き、 談合の末に1人の生徒を確保していく地道な訪問が続いた。ある先生は郷里である平市から一挙に数名の生徒を集めてこられた。 あのころの誰もが、胸中に複雑なものがあったことを思い出す。」

こうした苦労の末、昭和6年4月の入学者は、二本松16名・小浜 4名・その他安達郡 8名・福島市及び信夫郡 3名・伊達郡 3名・ 郡山市及び安積郡 2名・いわき郡 5名・若松市及び大沼郡 2名・他府県 3名 計46名の生徒を集め、定員には及ばなかったものの、 廃校の危機を回避できたと記録を残しています。

そして昭和8年(1933年)無事に創立10周年を迎えます。

創立10周年と束の間の平穏

(上記写真 創立10周年記念行事の様子)

創立70周年記念誌には、「巣立った同級生は300名を超え、昭和8年10月16日に創立10周年記念式典が行われた。 翌日は、記念映画会と記念展覧会、最終日は記念体育祭と3日間にわたり盛大に挙行された。」とあります。

「達中創立10周年記念事業の一つとして、職員生徒一同協力して、玄関前より校門に至るまでの舗装工事を行う」など盛り沢山の10周年となりました。
戦争の黒い影がしのび寄る前に、束の間の平穏を楽しんでいた先輩は、初めて全国大会に出場した庭球部の思い出を残しています。

「コートに出て驚いた。観覧席は女性で半分以上埋められている。大体、観客席のあるコートなど見たこともないばかりか、 こんなに大勢の人の前でテニスをやったことがない。おまけに女性である。これだけですっかり上がってしまった。足の震えが止まらない。 これでは、とても勝てるわけがない。第一に、二本松というところ、小学校の時から、男女7歳にして席を同じうせずを実践。 達中生が女学生を冷やかしただけで、何かの処分にあうところである。観客席の女性がギャッと言うと、こっちのボールがネットにひっかかる始末で、 第1日目の団体戦はメチャクチャになってしまった。」


戦時下の安達-先輩たちのそれぞれの思い


日中・太平洋戦争に突入した時期に学校生活を送った多くの先輩が、戦時下の思いを記しています。

「昭和17年、私は3年生、そろそろ教練が厳しくなってきたころで、週2回、各1時間の教練の時間は、制服制帽で整列するのであったが、教官はクツ音高く出てきて、 生徒をギョロッと見まわしてから始まるのが怖かった。」と述懐しています。

「年に1度の師団対抗演習の際は、安達の渋川山中に紛れ込んで、 村の子供たちに、鉄砲を一発撃って見せては、柿を1つせしめたりしていたものである。」とまだ幼さが残る思い出も残されています。

また、別の先輩は、「私が入学した昭和16年から、5年制から4年制へ短縮されていた。開戦とともに運動部は解散させられ、軍事教練 がこれに代わって強化された。野球のボールを投げる手で、手りゅう弾を投げることになったのである。
日とともに戦況は悪化するばかりである。私たち中学生も、直接戦争に参加しなければならない気運が高まってきた。上級生の何人かは、予科練に入隊していった。 私は進学組にいたが、国が破れては大学もない。1学期の中頃、同級生数人と語らい予科練を受験した。
家族に無断で受験したので、合格通知が来たときには、母は驚いてお前はまだ戦争に行くことはないと言って泣いた。私は17歳になったばかりだった。」

またこの時期に卒業した先輩は、 「私たち16回生は、大正14・15年に生まれ、灰色の青春をおくり、戦争では若い兵隊として苦労した年代でした。 同級生の数名が若い命を散らしました。」

友を予科練(よかれん)に送り出す先輩は、「4年生になると、予科練に行く友の壮行会を校庭で催されるようになりました。 『行け、行け、行け、わが友、雄々し、逞し、真弓の健児』を声を限りに歌いました。応援歌『古城原頭風寒く』も必ず歌いました。」と書き残しました。

昭和20年4月1日、学徒動員として71名の生徒を川崎に引率した教員が、4月15日の川崎空襲を、 当時の日記から克明に残しています。(下記左 川崎学徒動員71名・下記右 空襲直後の川崎市)

「午後9時頃警戒警報。午後10時空襲。寮の屋根が燃え上がる。ものすごい音がする。数人の生徒が屋根に上り、火を消す。そのうち塀が燃え上がる。 手の施しようがない。生徒を奉安殿の前に集め、逃げる。駆けても、駆けても、頭上にB29がついてくる。焼夷弾の音、高射砲の音、灼熱地獄の中、 伏せたり、あるいは空を眺めながら走る。もうこの世も、終わりかと感ずる。富士電機が燃え上がる。川に入る。ここも危ない、這い上がる。風上へ、 産業道路をひた走りに走る。逃げ惑う人の数が増えてくる。もう一人の先生の笛を頼りに、雑踏の中を一団となって駆けていく。高台の空き家で一夜を明かす。
午前5時夜明け、東国民学校に集合する。点呼する。71名中、行方不明者26名。不明者が気になるので、工場に戻ると、不明の26名が工場に集まっていた。 健在である。涙が止めど無く出る。全員がうまく逃げてくれたのである。」そして、2日後の4月17日に、全員無事に二本松まで戻ってきます。


これより1年半ほど前に動員された、高等女学校の同窓生23人による女子挺身隊の先輩は、この川崎への学徒動員にもふれ、 次のような手記を残しています。

「昭和18年の秋、東京羽田の軍需工場へ行くことになりました。挺身隊員は体育館のような広い作業所で、羽二重を幾重にもノリで重ね、それを縫い合わせて、 大きな大きな風船に仕上げる作業につきました。後にアメリカ本土を偏西風に乗せて爆撃するための、風船爆弾だったことを知りました。 作業にも慣れて1年を過ぎる頃、戦争が激しくなってきたので、挺身隊は1年延長の知らせが入りました。その頃、安達中学の生徒さんたちが、 学徒動員で川崎の工場に来られたことを聞きました。中には、挺身隊員の弟さんが何人かおられたので、私たちは夜勤の食事をみんなで節約して、 1つでも多くのおにぎりを作り、翌朝電車に揺られて、弟たちの働く川崎の工場におにぎりを届けに行きました。」
この挺身隊も東京大空襲に遭遇しますが、1人のけが人もなく帰郷したことが記されています。


一方、1944年 昭和19年10月から、本宮の郡是工場で練習機の翼づくりに動員された先輩は、

「昭和20年4月12日、良く晴れた日であった。材料不足で仕事がないため、本町の久保丁にある校長住宅の防空壕掘りをやっていた。
阿武隈川を南下するアメリカ軍艦載機の一群を目で追っていると、本宮方面から黒煙が上がった。 とっさに郡是が爆撃されたと思い現地に直行した。
工場は跡形もなく、早速3人が一組になり、昨日まで一緒に働いていた女子工員の遺体を、土中から掘り出し安置所に運んだ。
束ねていた髪が乱れていた。何度も往復して、ただ黙々と運んだ。
偶然とはいえ、私たちが工場を離れていなかったらどうなったことだろう。」

(左 本宮空襲の図)

こうした戦時下の辛い手記を残す先輩が多い中で、若者らしい手記も残されています。

この時期の授業での傑作エピソードを、ある先輩が日記に残しました。(下画像-1937・8年の授業風景)

「○月○日、冬の日差しが明るく差し込んでいた。数学のW先生は度の強い眼鏡をかけ、いつものようにムチ代わりの太い竹の棒を持ってくる。 宿題に厳しく、やってこないとこの竹が唸るのである。
昨日、同級生の友人は、この竹の恨みもあってか、宿題を虫眼鏡で見るような、小さい数字で書いてきた。すると
先生『なんだこれは、こんなに小さく書いてくる奴があるか。』
友人『でも、今は節約の時代です。』
先生『バガ、こんなのは、節約っていうんでねぇ。ケチっていうんだ』と竹の棒でコツリ。
先生『わがったが。』
友人『ハイッ』
先生『明日、もう一回、大きく書き直してこい。』
友人『ハイッ』

そして今日は、その結果の日である。
先生『どうだ、書き直してきたが。』
友人『ハイッ』
先生『どれ、見せでみろ。』

友人は、何やら折りたたんだものを机から出した。それはざら紙をつなぎ合わせた大きな紙で、そこには黒々と大きな数字が書いてあり、 教室は大爆笑である。すると
先生『バガヤロウ。なんだこれは。』
友人『先生、でっかぐ書いて来いって、言ったべした。』
先生『ばがだな、おめは。こんなに大きく書いてこいって、誰が言った。』
すると、間髪入れずに教室の後ろの方から、『大は小を兼ねる』という声がした。
先生『だれだ、いま、大は小を兼ねる、といった奴は』
同級生『はい』
先生『ちよっと、こっちに来てみろ。』
というと、ストーブの傍にある火をかき混ぜる先の曲がった鉄製の棒をもって、同級生に言うのである。 先生『おめえ、これで耳かきできっか。』
同級生『……。できません。』
先生は得意顔で『そーれみろ、大は小を兼ねねえんだ。』」


高女の先輩の手記です。

「愛染かつら(1938年公開 松竹 主演:田中絹代・上原謙)の完結編上映の日、入場料を支払おうと致しましたら風紀の先生とバッタリ。
血の気が一瞬引いて目の前が真っ暗になりました。先生に『とにかく、ここまで出て来たのだから見て帰りなさい。』と許されたうえ、映画終了後、 先生にごちそうになったのは、今考えてみますとシューマイであったと思うけれども、とても喉を通らず、翌日、職員室に呼び出された自分の姿を想像するばかりでした。」



戦後の安達-男女共学と庭球部全国制覇


終戦時の様子を、在学していた先輩が語っています。
「ポツダム宣言受諾後、しばらく休校になった。その間にそれまで学校で行われていた制度・慣習はすべて廃止され、 奉安殿など天皇陛下に係わる施設や道具、銃や銃剣などの軍事品はすべて廃棄された。」

別の先輩はこう語ります。
「戦後はなんでもかんでも『民主主義』『多数決』で、随分へんてこなこともあった。 クラス会で多数決の結果、修学旅行がなくなったりした。」
(左画像 1948年 昭和23年の文化祭)

女学校に入学した先輩は
「昭和19年(1944年)4月に女学校入学した。小学校と同じ校舎内で間借り状態だった。
昭和21年(1946年)11月に安達高等女学校に移管するのを機に、荷物を抱え一番近道をのぼっては下り、 今の二本松北小学校へ引っ越した。
昭和23年(1948年)、女子高校2年の時が最も充実した生活を送ったように思う。勉強も軌道に乗ったし、 特に運動部が盛んな時代になった。バレー部だった私は初めて県大会出場を果たし、一番の思い出となった。」


教育制度改革により、中学校から高等学校へ移行され、 同時に男女共学になる混乱ぶりも多く書き残されています。

実際、近隣1町11カ村の自治体が安達高校と安達女子高校の統合反対の陳情。 更には安達女子高校存続期成同盟会結成など地域も巻き込んで大混乱となりました。

当時の安達高校新聞部の部長は
「安達女子高校が、福島県議会の決議により、わが校と統合されることになった。
今では考えられないだろうが、この件が大きな社会問題となった。何と、女子高生が男女共学絶対反対のノロシをあげた。 達高は県会の決議に基づいた行動だったが、女子高は生徒や一部教師による反対運動が繰り広げられていた。


私は生徒会の役員だったことから、女子高の生徒会役員と会いに女子高に足を運ぶと、校内いたるところに、 統合絶対反対のビラが貼られていた。


話し合いは難航して、新聞部でもあった私は『一国に二つの憲法はない。議会の決定に従い、 いち早い解決を』と新聞を作り女子高に持っていくと、女子高の先生に、ストーブでそっくり燃やされた。
ところが幸か不幸か、こうした新聞部の苦労の取材があったからか、全国高等学校新聞コンクールで3位に入る快挙を達成した。 とてもうれしかった。
統合問題は、若干の犠牲を伴って解決した。 いざ統合してみると、過去にそんな問題があったとは思えないほど、各クラブ活動は男女円満に行われ楽しかった。」

女性の先輩は、この時期を次のように振り返ります。
(女子制服の変遷画像 左・1931年 昭和6年頃 中央・1935年 昭和10年頃・右 1948年 昭和23年頃)

「当時の制服のスカートのヒダ作りには苦労しました。毎夜布団の下にひき、寝押しで仕上げるのですが、 そこは活発な年代ゆえの悲しさ、複々線だったり、畳目がくっきり写っていたりと、勉強よりもスカートの仕上がりが気になったものです。
1年の後半からは、男子、女子高の合併問題が具体的になり、反対の署名運動や授業のボイコットなどもありました。 伝統のある男子、女子高双方がなくなってしまうことを憂い、生徒よりも教師や父兄の反対が大きく、 私たちはただ右往左往するばかりでした。
共学になり、最初はとても不自然な面が多く、朝礼などで男性の威力はここぞとばかり、ものすごい大声で校歌を歌ったり、 足を踏み鳴らしたり。そんなことも慣れるにつれて、お互いに心にも余裕ができて協力的になり、若さと活気があふれていました。」

(上記画像 1952年頃の共学…男女は別クラスだった… 1~3組が女子クラス・A~E組が男子クラス)


戦後、最も安達の名を全国にとどろかせたのは、第1回都道府県対抗庭球大会での優勝です。

全国制覇を成し遂げた先輩は、
「昭和26年7月25日、安達高校庭球部後援会や同窓会の支援を受けて、三重県宇治山田市営コートで全国の強豪と渡り合いました。


 1回戦・不戦勝
 2回戦・香川 丸亀第一高戦 3ー0
 3回戦・優勝候補筆頭 兵庫 滝川高戦 2-1
 4回戦・佐賀 竜谷高戦 2-1
 準決勝・広島 福山東高戦 2-1
 決勝戦・神奈川 小田原城内高戦 3-0


で下し、42都道府県の頂点に立つことができました。
表彰式の感激は、今でも脳裏にはっきりと浮かんできます。夕闇が立ち込めるコートで、スポットライトを浴び純白の文部大臣優勝旗をしっかりと握り、 歓喜と涙で歌った『凱歌』は、生涯忘れることがないでしょう。」と綴っています。

二本松に凱旋した時には、花火は引きも切らず、昼は全市民の旗行列、夜は近郷近在を含めての提灯行列、そして母校グランドでの大祝勝会と安達郡全体、 在校生や同窓生を、歓喜の渦に巻き込んだ大偉業でした。

戦中、戦後を含めて、疎開や親の勤務の都合で転向する先輩もこの時期は多かったようです。 戦後間もなく東京から転校してきた先輩は、転校してのエピソードを残しています。
「東京から福島に来て、一番困ったのが方言でした。
学校から出火したことを想定した消火訓練の時、近くにいた先生が私に近づいてきて、 『ホースたんがげ。』私は何を言われているかわからず、ボーッと立っていると、またまた先生が『ホースたんがげ。』と言います。 今度は何となく、ホースを持つんだなと想像がついて、ホースのほうへ向かうと、今度は『はしたんがげ』と。はし?  どこに食事に使う箸あるのかと、キョロキョロしてしまいました。」


また当時は、大変な就職難で、就職をめぐっての先輩との思い出も残されています。
「昭和25年3月に卒業し、大変な就職難の時で職であれば何でも良いという時代です。半年の浪人生活の後、8月に縁あって関西の名門証券会社に入社しました。
ドッジデフレの真っただ中で証券業界は大不況でした。将来への不安もあって、安達在学時代の校長先生に事情を話し、 のちに副社長まで務める当時の神戸大丸百貨店支店長の大先輩に、紹介状を書いていただきました。
それを携え、神戸に伺うと大歓迎をうけました。ところで今日は何の用で来たのかと聞かれ転職についてお話したところ、入社何年か問われ、1年足らずですと答えました。 すると、わずか1年で何がわかるかと一括され、石の上にも3年、3年たっても転職の気持ちがあれば改めて相談に乗ろうということで帰されたのでした。
何と冷たい先輩かと思いつつ証券会社の仕事を続けていると、折しも朝鮮動乱で株式が活況を呈したのです。 それがきっかけで仕事が面白くなり、定年まで勤め上げました。大先輩の本当に人を思っての拒絶する優しさを改めて感じたものです。」


平穏な生活に戻った安達-大いに青春を謳歌する


ようやく戦後の混乱から抜け出し、安定期に入ろうとする頃です。
安達高校は、男女共学とはいえクラスは男子のみ女子のみのままで、生徒会や部活動だけが合同という変則的なものでした。
この時期の生徒会についての思い出が残されています。
「当時の生徒会は、ヤジが飛び交う中で、白熱した議論がしばしばなされ、それなりに面白かった。とくに男女共学のあり方については、ほとんど毎回議題に上った。
また、予算編成では、運動部連合と文化部連合の対立が激しく、運動部の主将らは舌鋒鋭い文化部リーダーを、物陰に拉致し圧力を加えることもあった。 予算提示額の低さに、腹を立てた運動部主将の「バカヤロー」発言で審議中断などの騒ぎもあった。」この年に吉田内閣の「バカヤロー解散」がありました。

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