県スポーツ協会副会長 片平 俊夫(78) 1
悔し涙が「王国」の原点
本県は「陸上王国」と呼ばれるが、決して昔から強かったわけではない。
1980(昭和55)年4月、私は35歳で福島陸上競技協会(福島陸協)の強化部長を任された。しかし、栃木県で同年秋に開催された「栃の葉国体」の陸上で県勢は惨敗する。 選手に基礎が身に付いていなかったからだ。
大会後、郡山市の開成山公園近くにあった飲食店で福島陸協の役員が集まる会議が開かれた。待っていたのは厳しい叱責だった。
「強化部長、いったい何をだらしないまねをしてるんだ」などと集中砲火を浴びた。今なら間違いなくパワハラだ。強化部長に就任してからまだ半年なのに、全責任を押し付けられた。私も頭に血が上がって強化予算不足の課題を指摘すると「言い訳してんじゃねえぞ」「生意気言ってんな」と怒声が飛んだ。
その瞬間ふと、強化部の先生方の姿が脳裏に浮かんだ。彼らは自分の子供が休みがちになるという不思議な共通点があった。きっと、家庭を顧みずに陸上の指導を頑張ってきたからだ。仲間の苦労を思い出すと、思わず悔し涙があふれてきた。
この時代、駅伝では選手を平気で罵倒する人が本県の監督だった。強豪県の指導者は隣で「ナイスラン」と走り終えた選手をねぎらっているにもかかわらず。どんなに罵倒しても選手が牛や馬のように走るわけはない。
「皆さんの頭が古いから、この体たらくなんですよ。そちらの方こそ変わるべきだ!」
強化部長を辞任してもいいと覚悟し、会議の場で言い返した。この時の悔しさは今でも忘れない。結果的に強化部長を続け、競技力向上のため改革を進めていくことになる。
あれから42年がたった。日の丸を背負い、五輪や世界選手権に出場する陸上選手が本県から次々と誕生している。若者が躍動する姿を見ることは何よりの楽しみだ。ここに至るまでの歩みは平坦でなかった。私の信念は「迷ったら厳しい道を行く」。その言葉通り試練の連続だった。(聞き手 鈴木健人)
約40年前の新聞記事などに目を通す私。当時の資料は今も大切に残している。
かたひら・としお
伊達郡保原町出身。保原高、順天堂大学体育学部卒。1967(昭和42)年教員採用。長年にわたり陸上界の発展に尽力。95年の「ふくしま国体」では本県の天皇杯獲得(男女総合優勝)に裏方として貢献した。2015年みんゆう県民大賞受賞。
(福島民友2022年8月15日付)