県スポーツ協会副会長 片平 俊夫(78) 5
次の試練は天皇杯獲得
国体開催県は天皇杯獲得(男女総合優勝)が至上命令となる。だが、1995年(平成7年)の「ふくしま国体」を誘致していた本県は実現がかなり難しい状況にあった。
88年から4年連続で40位台に低迷し、90年は史上最低の45位に沈んだ。一向に上昇気配はなく、いつも県議会でたたかれた。競技団体の間では「(国体に向けた強化対策を)誰かやるだろう」という雰囲気が漂っていた。
それ以前にさかのぼれば、本県はそれなりの順位だった。お家芸のウエイトリグティングと自転車、時として山岳を含む3競技が強く、各競技の上位に与えられる競技得点を取れたからだ。しかし、新たな得点方式が導入されたことで、総合で上位まで勝ち上がれない競技が多い本県は総合得点が伸び悩んだ。
選手補強が必要となる中、国体関係のスタッフは地元の大学出身者が多く、県外の指導者との交流は少なかった。競技団体から選手補強の要望があっても応えられなかった。
「本県のためには片平先生にも一緒に頑張ってもらうしかない」。ふくしま国体の優勝請負人となる競技力向上対策室が設置され、私は室長の結城勝夫先生から強化対策班長に指名された。ただ、心境は複雑だった。本県の陸上が目覚ましい躍進を遂げ、福島陸協の強化部長としては陸上監督として戦いたかった。
いろいろと煩悶したが、陸上で培ってきた人脈を生かせる仕事にも魅力を感じていた。迷ったら厳しい道を行くー。 その信念と私淑する結城先生の言葉を胸に覚悟を決めた。
91年から裏方として4年後のふくしま国体に向けて奔走する日々が始まった。対策室が掲げたのは「ホップ・ステップ・ジャンプ計画」。1年目は30位台、2年目は20位台、3年目は10位台と順位を上げ、最終的に総合優勝を達成するための年次目標を設定した。
強化対策班長に就いた私が最初に取りかかったのは現状の把握。そこで目の当たりにしたのは、県内の競技団体の途方に暮れた姿だった。
(聞き手 鈴木健人)
ふくしま国体の競技力向上対策室への移動を命じられた私。1991年から強化対策班長として奔走する日々が始まった
かたひら・としお
伊達郡保原町出身。保原高、順天堂大学体育学部卒。1967(昭和42)年教員採用。長年にわたり陸上界の発展に尽力。95年の「ふくしま国体」では本県の天皇杯獲得(男女総合優勝)に裏方として貢献した。2015年みんゆう県民大賞受賞。
(福島民友2022年8月19日付)