県スポーツ協会副会長 片平 俊夫(78) 2
戦うには軍資金が要る
国体の陸上は昔から5日間の日程で開催され、総監督は福島陸協の強化部長が務める。
強化部長に就いた私は少なくても毎日1人ずつ入賞者を出すことを最初の目標に掲げた。
大会によって異なるが、当時は県勢の入賞者が大体1人か2人。前任の強化部長はスタンド真ん中に陣取り「頑張れ!」「頑張れ!」とひたすら激励する方だった。その手法を全て否定するわけではないが、サブトラックで選手のコンディションを整える役目を果たすべきだったと思う。他県は分業体制を敷いて複数のコーチを同行させていたが、本県からの派遣は理事長、強化部長、マネージャーの3人だけ。指導体制に課題があると考え、まずは強化部長を短距離、長距離、投てき、跳躍の4部門に細分化し、それぞれのコーチが専門種目を教えられるように組織を見直した。
次に立ちはだかったのが予算問題だ。専門コーチを送り込む場合は「協会派遣」として福島陸協が費用を負担しなければならない。台所状況が厳しくなるため、陸協内には「金がないから駄目だ」などと後ろ向きな声ばかりだった。
コーチを出せないのなら、いつまでも勝てない。お金を集めるのは福島陸協の会長や理事長の仕事だと思い、派遣費用を捻出してもらおうと、上層部と激しいせめぎ合いを繰り広げた。当時の私は30代半ば。福島大陸上部監督に就いたばかりでまだ若かった川本和久君の目には私が老けて映ったようで「あの頃の片平先生は50代くらいだと思いましたよ」と後に冗談交じりに笑われた。
1983(昭和58)年に地元開催の「あかぎ国体」を控えていた群馬陸協は約2千万円の強化予算があった。本県は県体育協会(現県スポーツ協会)の40競技団体で計600万円。つまり、1競技団体当りわずか15万円程度だ。
軍資金がなければ戦えない。本県の陸上を強くしたいー。この一心で福島陸協の上層部を何度も説得した。
(聞き手 鈴木健人)
福島陸協の強化部長時代の私(後列中央)。苦労も多かったからなのか、川本君(同右)の目には私が老けて見えたらしい=1985年ごろ
かたひら・としお
伊達郡保原町出身。保原高、順天堂大学体育学部卒。1967(昭和42)年教員採用。長年にわたり陸上界の発展に尽力。95年の「ふくしま国体」では本県の天皇杯獲得(男女総合優勝)に裏方として貢献した。2015年みんゆう県民大賞受賞。
(福島民友2022年8月16日付)