県スポーツ協会副会長 片平 俊夫(78) 11
家族の歴史宿るモモ畑
果樹や水稲を栽培していた上保原村(現伊達市)の農家に生まれ、家族と過ごした日々が原点にある。仲の良い7人きょうだいで、末っ子の五男の私はかわいがってもらった。
幸せな家庭だった。でも、兄姉が立て続けに病気を患って経済的に苦しくなった。三兄は「肺病」と呼ばれていた結核に感染し、壮絶な闘病生活の末に26歳で命を落とした。看病した長姉にも家庭内感染したが、ハワイに移住していた親戚のおかげで抗生物質が手に入り治癒できた。この頃、我が家の前を通る人が感染を恐れ、口元を押さえていたことが悔しくてしょうがなかった。さらに、おいしい料理を作ってくれた長兄の嫁が胃がんで他界。四兄も50代で肝臓がんに倒れ、最期は鎮痛薬のモルヒネを打って耐えるしかなかった。
そんな家庭で育ったからこそ、私は健康に人一倍気を使っている。自分もいつ病気になるか分からない。たばこは吸ったこともないし、酒もほとんど飲まない。
道半ばで逝った四兄は農林省(現農林水産省)の農業技術研究所に進み、神奈川県の平塚にあった実験農場で果樹の品質改良を学んだ。この農場の地主だったのが副総理や農林相を歴任した河野一郎さん。後に衆院議長や日本陸連会長を務めた息子の河野洋平さんと私は話せる機会があり、「子供の頃に研究所の若い人たちが縁側に座り、おふくろがお茶を出していました。片平さんのお兄さんがいたかもしれませんね」と言われて感激した。
四兄が品質開発に携わったモモは父を中心とした農家の組合が生産し、福島市の帝北食料(現サンヨー缶詰)に納めた。サンヨー缶詰は果汁入り飲料「ネクター」を製造する不二家と取引を開始。その後、不二家は日本陸連のスポンサー山崎製パンの傘下に入る。山崎製パンの社長は、私がお目にかかった際に当時の生産者の尽力を覚えていてくれた。
実家のモモ畑は現在、90歳の次兄が守っている。私も毎年夏には収穫を手伝う。人と人の縁を感じながら。
(聞き手 鈴木健人)

かたひら・としお
伊達郡保原町出身。保原高、順天堂大学体育学部卒。1967(昭和42)年教員採用。長年にわたり陸上界の発展に尽力。95年の「ふくしま国体」では本県の天皇杯獲得(男女総合優勝)に裏方として貢献した。2015年みんゆう県民大賞受賞。
(福島民友2022年8月26日付)