県スポーツ協会副会長 片平 俊夫(78) 14
五輪銅 才能開花の瞬間
国立競技場近くで見た1964年東京五輪陸上男子マラソンは目に焼き付いている。
当時、私は順天堂大陸上部の学生。競技場から数百メートル離れた東京・千駄ヶ谷の水球会場で運営の補助員を務めていた。「『えんや』だか『まるたに』って名前のようだ。」テレビ中継を見ている人の会話ですぐに円谷(つぶらや)幸吉さん(須賀川市出身)だと分かった。慌てて高台まで見物にでると、円谷さんと後方を走るベイジル・ヒートリー選手(英国)の背中が見えた。円谷さんは競技場で抜かれたものの、3位で銅メダルに輝いた結果はあまりに有名だ。
円谷さんは男子1万メートルでも6位入賞を果たした。最終日のマラソンは経験が少ない上に疲労が懸念され、日本勢3選手の中でも最も下馬評が低かった。それでも、日本の面目を保つ陸上唯一のメダルを獲得し、「救世主」と呼ばれたことは同郷として誇らしかった。
私は円谷さんの四つ年下。高校3年生の時に、国体の本県選手団の強化合宿で同部屋になったことがある。当時、福島市の福島競馬場周辺に騎手の宿泊施設があった。指導者の先生が競馬好きで場長と仲が良く、合宿中はそこを使わせてもらって寝食を共にした。今では考えられないが、長距離の選手は競馬場のダートコースで早朝練習を行っていた。
円谷さんは実直な性格で、練習ではとにかく自分に厳しかった。寝る前に次の日の練習で使うユニホームを着る順番通りにたたみ、靴下をちょこんとその上にのせた姿が印象に残っている。国体では選手がいくつかの民宿に散らばって泊まった。夜に民宿を回り、私たち後輩にバナナを配ってくれた面倒見の良いところも覚えている。
円谷さんは素晴らしい選手だが、五輪でメダルを取るとは想像もしなかった。自衛官時代の上司で元郡山市陸協会長の斎藤章司さんが良き練習パートナーだった。地道な努力と人との出会いー。才能が一気に開花する瞬間を垣間見た思いだった。
(聞き手 鈴木健人)

かたひら・としお
伊達郡保原町出身。保原高、順天堂大学体育学部卒。1967(昭和42)年教員採用。長年にわたり陸上界の発展に尽力。95年の「ふくしま国体」では本県の天皇杯獲得(男女総合優勝)に裏方として貢献した。2015年みんゆう県民大賞受賞。
(福島民友2022年8月30日付)